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娘に対する思いとは違う?妻に対する思い

津田梅子のドラマ

先日、津田塾大学の創始者、津田梅子の半生を綴ったドラマを観た。ドラマでは「梅」と呼ばれていた。梅はちょくちょく歴史ドラマにチラリと登場する、当時の女性としてはとても珍しい、英語ペラペラの女子だ。留学したという事は知っていたが、詳しく知らなかったので興味を持ってドラマを観た。

ドラマはなかなか面白かったが、あまりにも「日本の女性が」「女性達が」という言葉が多すぎて、男性には観ていてつまらなかったのではないか、と思ってしまった。また、梅はいつも怒っていて、あまり魅力的に描かれておらず、広瀬すずのファンには物足りなかったのではないか。

梅は、明治時代の日本の女性達が、男性より劣っていると思っていて、だから女性達の意識改革が必要だと考える。当時の日本社会は、これは女性には無理、女性がそんなこと出来るわけがない、という偏見がまかり通っていた。けれども、それが常識であり、多くの国民がそれを疑わなかった。だから、アメリカに6歳から11年間留学し、アメリカ社会を見てきた梅にとっては、もどかしい事この上なかったのだろう。

ガラスの天井を突き破るのは

私は正直、今まで生きてきて、あまり女性差別を受けた記憶がない。小学生の時には男子にいじめられたが、むしろ女子で良かったとさえ思っていた。前に立ちたくない、表に出たくないという引っ込み思案だったので、男子だったら前へ出なくてはならないから、女子で良かったと思ったのだ。

昭和後期には、だいぶ女性の地位は向上していたし、たとえまだまだガラスの天井があったとしても、男女は平等なのだ、という知識は、国民の間に浸透していた。しかし、もっと女性が蔑視されていた明治時代に生きていたら、どう思っていたか。私のような人間はきっと、それが当たり前だと思って受け入れていただろう。梅の言う、女性が愚かだと思って疑わない、愚かな女達の一人だっただろう。ガラスの天井を破るような人間ではないから。

女性の道を切り開く、先駆者達は素晴らしい。尊敬する。だが、批判を覚悟で一言だけ言いたい。女性だろうが男性だろうが、謙虚に生きていると、あまり叩かれない。出る杭は打たれると言う。謙虚な態度でいると、どうぞどうぞ、と前へ出される。私が前へ出る!と出しゃばると、女のくせにと叩かれる。やり方次第で、実は上手い具合に行く事もありそうだ。誤解しないで欲しい。それは、男性を立てて後ろに下がっているとか、女らしく振る舞って媚びるという事ではない。自分が前へ出るのが当然、自分が褒められるのが当然という態度に出るよりも、実績を出しつつも謙虚な言動をしていると、自ずと周りから認められるのではという事だ。

もちろん、同じ実績を積んでも、男性は出世するのに女性は出世しないという事は往々にしてあるのだろう。同じ土俵に上げてもらえないという理不尽さが。きっと、違う土俵を作ってしまえばいいのだろう。それはとても難しい事だと思うが。

梅の父親の態度

さて、ドラマを観て、一番印象に残ったのが、梅の父親の態度だった。

梅の父は、留学から帰って来た梅に、西洋式の部屋を用意し、客人達に紹介した時にも、お酌をさせなかった

「娘は西洋式なので、お酌はちょっと。」

と言って。それでいて、妻には横柄な態度を取る。

「早くあれ持って来い!」

などと言って。

これは特殊な事だろうか?娘を留学させたという、特殊な事情と、明治初期という時代のせいか?

私は自分達の父親世代の事を思った。明治初期ではない。昭和後期だ。

父親達は、娘には自分の為に生きて欲しいと言う。出来れば成功して欲しいと言う。私の高校時代の友達で、親がなんとしても一流大学に入れたいと必死になっている家庭がたくさんあったのだ。私の親も、私には何になっても構わないと言っていた。決して、花嫁修業をして結婚しろとは言わなかった。

だが、一方でまだ共働きは珍しく、母親は家庭に入り、子育てをするものだった。働いてもいいかどうか、夫の許しが必要だった。今は夫の方が妻に働いてくれと言う場合が多いようだが。父は自分の思い通りにならないと母に当たるし、身の回りの事で分からない事があるとすぐに母を呼んだ。母、つまり父にとって妻だが、妻には夫の為に生きて欲しい、夫の為に存在して欲しいと思っていた。でも、娘には自分の為に生きて欲しい、どこかの男の為になど生きて欲しいとは思わない。

これ、いつまでそうなのか。今の子供達の父親たちはどうなのだろうか。うちには娘がいないので分からない。けれども、きっと今のパパたちは、娘には輝いて欲しいと思っているはず。もし、妻にも妻自身の為に生きて欲しいと思っていたとしたら、それなら素晴らしい。

平等は男女両方に優しい

梅は、まず女性の意識が変わらなければ、何も変わらないと言った。けれども、女性の意識だけが変わると、男女で争いになるのではないか。男女一緒に意識を変えていくのがいい。女子校で女子にばかり男女平等を説いてもダメだ。共学校でそれを説かなければ。

私は女子校、女子大だったから、男女差別を受けなかったのだろうか。大学生の時には、むしろ逆だと思った。女子は大事にされ、男子はどうでもいい扱いを受けていたような。男子が可愛そうだと思った事もある。当時はあっしー君だとかみつぐ君などと言う言葉も存在し、それでも男子は文句も言わずに耐えていたのだ。

注)あっしー君=車で送り迎えだけをさせる彼氏 みつぐ君=プレゼントをさせるだけの彼氏

社会人になっても、自分の会社は女子のお酌は禁止で、むしろ若い男子は幹事をやらされるし、仕事で徹夜もさせられた。女子は帰りが遅いと危険だなどと言って、仕事をさせてもらえなかったとしたら、男尊女卑になるのかもしれない。けれども、そんな風には感じなかった。

私は、周りの男性達に恵まれているのだろう。それは間違いない。古い考えの、女性蔑視している人とはほとんど交わらなかったのだろう。それはさておき、小学生の頃に私が「女子でよかった」と思った事を考えて欲しい。当然、男子でも引っ込み思案な子はいたはずだ。そんな男子にとっては、男子が必ず前へ出なければならない世の中は、住みにくいに違いない。もし男女関係なく、前へ出たい人が出て、出たくない人は出なくていいのなら、みんなが幸せだ。

しかし、引っ込み思案自体が、過去の産物なのかもしれない。今の学校教育は昔と全然違う。全員にしゃべらせる。しゃべれなかったり、泣いてしまっても誰も責めない。小さい頃からそうやって、みんなが人前で意見を言えるように育っていくのだろう。昔は、ちょっとつっかえれば指を差して全員から笑われて、それを先生も咎めなかったし、体育館などで大勢の前でしゃべる機会は、40人に1人くらいにしか与えられなかった。それで、結婚式でスピーチしろと言われても、多くの人が困るものだ。

脱線したが、とにかく、男女平等は女性にだけ嬉しい事ではない。みんなが幸せになれるのだ。だから、女性が、女性がと言うのは辞めようではないか。性別で何かを決めつける事を辞めよう。