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PTA活動など、ボランティア沼にずぶずぶ填まって抜け出せなくなる理由

時間がある

私は外に勤めに出ていないので、時間だけはある。それは、自分のやりたい事をする時間を犠牲にして作る時間ではあるが、仕事と子育てですごく忙しい人から見たら、暇な人なのである。

そう言った理由もあり、子供が小中学生の時には、PTA活動に人並み以上に参加してきた。今、子供が全て中学を卒業し、高校はコロナ禍故にPTA活動が縮小されており、何もやっていない、かと言えばそんな事はない。

地域のボランティアとでも言おうか、元中学校PTA役員の仕事とでも言おうか、まだ出番があった。今まさに、中学校の周年行事実行委員になっている。

実は、自ら申し込んで参加したオリンピックのボランティアとは、すごく違うものである。PTA活動に積極的に参加している(と見えている)理由と、スポーツイベントのボランティアに参加する理由とは、違うのである。

対価なしでいい?

私はボランティア精神はほとんどない。残念ながら。

出来れば、労働をしたら対価が欲しい。報酬というか、ご褒美というか。いや、特権でもいい。そういう、浅ましい人間である。無償の愛なんて、よほど好きな人にしか抱けない。いや、例えば子供に対してでさえ、欲する。それは「好き」という感情とか、優しい言葉掛けとか、そういう物でいいのだが。

だから、全く無償でいいと思って活動してくれる人がいるなんて、考えられない。信じられない。だが、実際そういう人が何人もいるのだ。PTA活動をしていると、そいういう人に出くわすのだ。たとえ、多少の金銭的損をしてでも、ボランティア活動をしてくれる人がいる。

もしかしたら、私もそういう人に見えているかもしれない。だから、本当はみんな私と同じなのかもしれない

じゃあどうして、「対価を望まずにボランティア活動をしている」と見える人たちが存在するのか。

私にはよーく分かる。

端的に言えば、やりたがらない人に見られたくないから、だ。

PTA活動の始まり

どんどん行かずに、少し順を追って説明しよう。

PTA活動は、最初はクラスの中で委員なんかをやる人、やらない人に分ける。

そこで、やるかやらないかを決めるのだが、大抵の人はやりたがらない。やりたがる人がいるとすれば、

「1年生のうちにやっておけば、委員長にならずに済む」

とか、

「受験の年にやりたくないから、今先にやっておく」

など、利己的な理由が存在する。それはすごく分かりやすい。

それ以外の人は、出来ればやりたくない。なので、決める時には揉めたり険悪なムードになったりする。

やる人が決まる。その中で委員長を決める時には更に揉めたりする。くじ引きだったりもする。

やるかやらないかを決めるのは、揉める。熾烈な戦いである。

悪い人だと思われたくない

だが、ここから意外な現象が起こる。全員やるという状況で集まる。特に、委員などではなく執行部とも言われるPTA役員などは顕著なのだが、仕事の割り振りで、何もやりたくないと言う人はいない。絶対にいない。

「私、これやる」

皆、積極的に仕事を引き受ける。なぜか。一人でさぼる人にはなりたくない。「やらない人」だというレッテルを貼られたくない。もっと言えば「いい人」と思われたい。

言い過ぎかもしれない。「悪い人」だと思われたくないのだ。これは当たり前だ。だって、自分がやらないと、誰かにしわ寄せが来る。少ない人数の中で、顔が見える人が自分のせいで負担を増やす様を、黙って見ていられないのだ。

想像してみて欲しい。例えば4~5人で仕事をいろいろ分担して行くとしよう。他の人が

「これは私がやる」

と言って引き受けていく中、黙っていたら自分だけ何も仕事を引き受けていなかったら。

他の4人は1つや2つ、役割を担ったのに、自分だけ何もしない。黙っていたらそれで済んでしまう様子。そうしたら、まずい、何かやらなければ、と焦るのが人情ではないか。

「○○さんは2つも仕事あるじゃない、一つは私がやるよ」

と、一つ仕事を奪うのは、優しさやボランティア精神の皮を被った利己主義なのだ。自分が後ろ指指されたくない、あの人は仕事をやってくれないと思われたくない、そういう自分本位な感情。

そうして、積極的に仕事を引き受け、自宅ではしんどいと思いながらパソコン作業などをするのだ。人によって買い出しだったり、早く学校に来て準備するだったり、業者と連絡を取るだったり。人それぞれ、苦手な事や面倒に感じる事が違う。積極的に仕事を引き受ける動作には、苦手な事ではない方の仕事を回して欲しいという利己主義もあるのだ。そうして、自ら率先して手を挙げ、仕事を引き受けるようになるのだ。

次のフェーズ

一度そういう経験をすると、最初の段階の「やるかやらないか」を決める時にも、

「やりたい人がいないなら、やってもいいよ」

という風になる。それに、個人的に頼まれると断れない。「やらない人」のレッテルを貼られたくないが為に、「やってくれる人」のレッテルを貼られてしまうのだ。

そうして、次にお声が掛かれば断れず、実行員だろうが、民生委員だろうが、二つ返事で引き受けるようになっていくのである。

何か、断る理由があれば断れる。つまり、以前の私とは違うというアピールが出来ればだ。

「仕事を始めたので」

「介護があって」

「体を壊してしまって」

などなど。そういう事がなければ、連鎖は続くのだ。

スポーツイベントをする理由

一方、スポーツイベントのボランティアは、PTA活動とはどう違うのか。

オリンピックの時も、大会組織委員さんからよく言われた事がある。

「ボランティアの方、本当にありがたいですよ」

「ボランティアでやられているなんて、本当にすごいです」

と。そりゃあ、同じ事してお金がもらえるならば、そっちの方がいい。だが、お金がもらえる立場より、ボランティアの方が気楽だという事もある。ただ、私はその為にボランティアをするわけではない。気楽だからではないのだ。

一言で言えば、メリットがあるから。

例えば、大好きな競技に携われるとか、国際交流が出来るとか、好きな選手を見られるかもしれないとか、ユニフォームをもらえるからとか。

私がオリンピックボランティアをやろうと思ったきっかけは、ユニフォームをもらえるからだった。記念になるという意味で。東京でオリンピックなんて生きている内にはもうないだろうし。売っていないユニフォームを持っていたら、自慢になるし。

私は、そう言った短絡的な人間なのだ。単純に損得で動く人間だ。それなのに、地域ではボランティア活動を引き受けてくれて、仕事も率先してやってくれる人になっている。驚きだ。私はそんなんじゃないのに。

やった方がいいのも事実

ただ、PTA活動をしていると、一緒に活動する人たちや学校の先生などとおしゃべり出来て、その時はとても楽しい。むしろ、そういう活動がなかったら家に引きこもりがちなので、無理にでも用事を作って出かけた方がいいのだ。心身のために。だとすれば、地域のボランティア活動は、自分に取ってメリットがある。

活動によって、小説を書く時間を削られる事もあるが、ブログのネタにもなり得る。小説の肥やしにもなる。しんどかった時もある。私が苦手な事を強いられた時だ。人にはそれぞれ得意不得意がある。私が上に立つ時には、出来るだけみんながそれぞれ得意な事を活かして活動できるようにしたい。何せ、ボランティアなんだから。ただ、苦手だった事が出来るようになるという事もありうる。私も、かつて苦手だったはずなのに、PTA総会や役員会で司会を務めたことがあって、出来るようになった時には嬉しかった。また、今は出来る気がしないけれど。私はパソコンで文書を作ったり、プリント類の校正が向いているので。

それから、ちょっとお菓子をもらえたり、余った物をもらえたり、PTA会費で飲み会に出席できたりするのも、私にとってはメリットだ。人から言わせれば、夜の会合にまで出なくちゃならないなんて、すっごく大変!と言われたりもするし、そこもまた、得意不得意という事なのだろう。

まとめ

なぜボランティア活動に填まると抜け出せなくなるか、何となく分かっていただけただろうか。抜け出せなくなる事は、悪いことでもないと言うことも、分かっていただけたら幸いである。

PTA活動に関しては、全国的に賛否両論あるようだ。もし子供が学校に入って、この学校にはPTAがありませんと言われたら、嫌だなーとは思わないので、私は賛成でも反対でもない。だが、一応PTA活動には、先生や学校の事を知り、先生方とも協力し、ひいては子供たちの為になるというメリットもあると思う。無くそうと考えているならば、まずは活動の仕方を変えてみてはどうかと個人的には思うのである。もう、ほとんど子育てが終わりなので、PTAをぶっこわそうとも存続して!とも思わないのであるが。

全国のPTAに幸あれ。

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