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励ましてくれてるのかもしれないけれど

 先日、NHK総合で「きよしこ~重松清の感動作」を放送していた。
 だが、私は見ていない。興味はあったけれど、見られなかった。いたたまれなくなるのは必須だったから。

自分の名前だからこそ

 ドラマのあらすじは、新聞で読んだ。吃音のある作家が、同じく吃音のある少年を励ますとか言う、感動作だとか。重松清の名作をドラマ化したものだそうだ。
 小説なら、読んでみたいと思う。だが、ドラマは見たくないと思った。それに、その新聞のあらすじの中に、「自分の名前「きよし」さえつっかえてしまう」と書いてあった。それでかなり興ざめ。自分の名前さえ、ではない。自分の名前こそ、つっかえてしまうものなのだ。
 それに納得できないから、見たくなかった、というわけではない。

子供の頃はよくある事

 私は子供の頃、吃音があった。ただ、言葉を覚えたばかりの子供は、一時期よくどもる。これは普通だ。その時に、周囲が注意したりせず、自然に流していればすぐに治るのだ。
 ところが、家族などが気にして、「この子はどもり症だ」と指摘したり、「つっかえないように、ちゃんとしゃべりなさい」などと注意したりすると、子供は緊張してしまい、また、自分はどもってしまうのか、と認識してしまい、吃音が残ってしまうのだ。これは、いろいろ調べたり、私が弟や息子たちを見てきて分かった事だ。

学生時代

 小学生の頃、よく授業中に笑われた。自己紹介電話をかけるのが特に苦手。それは、確かに緊張する場面でもあるのだが、「自分の名前を言わなくてはならない」のが一番きつい。そう、「自分の名前さえ」言えないのは普通じゃない、と思われるからだ。難しい問題を答えろと言われたら、案外あっさりと言えるもの。誰でも言えるはずの「自分の名前」さえ、すらっと出てこない。それが辛い。
 最初は、人前で話すのが苦手なだけだった。中学生の時にはほとんど治ったように思えた。かなり大勢の前だとかじゃなければ、大丈夫だと思っていた。
 ところが、高校生になって、そろそろ大人の対応ができるようになるはずの年になってくると、電話をかけたり、お店などで店員さんに話しかけたりする時に、ちゃんと言わないといけない、というプレッシャーがかかるようになった。
 とくに電話に関してはトラウマだ。部活の連絡網がよく回ってきて、そのたびに嫌な思いをした。いっそ現代文明が破壊されて、また原始時代に戻ればいいのにとさえ思ったものだ。
 一番辛かったのが就職活動の時だった。いっぱい泣いたし、死にたいとさえ思った。もちろん、朗読の練習とかスピーチの練習とか、たくさんやった。けれども、そんな風に練習をしている時こそ、普段の言葉さえ意識してしまって、かえって悪化した。何も考えず、リラックスすればちゃんとしゃべれるのに。

考えた。諦めた。

 原因などもいろいろ考えた。自分の祖母がよく「この子はどもるねえ」と言っていたのを覚えていて、祖母のせいだと思ったり、親が「大きくなったら治るよ」と言っていたのを、もっと早くに病院に連れて行ってくれていれば、と思ったりもした。
 吃音がなければ、もっといろんな事にチャレンジして、きっと今頃世界に羽ばたいていただろう、なんて事も考えた。たくさん諦めた。恥をかく事に慣れているようで、あまり慣れるものではなかった。吃音関係の話には、絶対に笑えないし、自分がつっかえてしまった事も、笑ってごまかしたりできない。すごく仲の良い友達にも、吃音の悩みだけは話せなかった。

SNS万歳

 実は、今はそれほど生活に支障がない程度に回復している。以前には考えられなかった「メール」などの文字通信が発達し、電話をかけなくても友達と連絡が取り合える。
 私はおしゃべりな人間だ。おとなしくて引っ込み思案の人間ではない。おばちゃん化した今では、店員さんに話しかけるのも平気だ。
 子供の学校に電話をかけるのだけが苦手だが。もう少しでネットで欠席連絡ができるようになるらしい。それまで休むな、息子よ。

目を背けたくなってしまうから

 自分が人前で話すとき、にこやかに優しく見守ってくれる人がいると安心する。だから、他にどもってしまう人を見たら、私もにこやかに・・・してあげたいけれど、できない。どうしても、顔を背けてしまう。息子たちが小さい頃にどもった時もそうだった。顔が引きつってしまう。
 そう、だから、冒頭の「きよしこ」というドラマは見ることができなかった。おそらく辛いだろう。笑えないだろう。目を背けたくなってしまうだろう。そんな思いをしてまでドラマを見る必要はない。
 ドラマを作った人たちは、吃音の人を励ますつもりだっただろうが、吃音で悩んでいる人の多くは、残念ながら見ていないだろう。と、私個人は思う。吃音仲間はいないので、ここで一人で語っているだけだが。

思いもよらない世の中の変化

 最後に一つ。以前、文明が破壊されればいいのに、と思った事があったと書いた。電話がなくなればいいと思ったわけだ。しかし、まさかその時には、将来インターネットなんて物ができて、メールなど、しゃべらなくても文字で即時通信できる時代が来るとは思いもよらなかった。番号通知される携帯電話ができただけでも、ありがたかった。名乗る前に、相手が私からの電話だと分かって電話に出てくれるのだから、だいぶ違う。
 あの時に、死ななくて良かったな、とつくづく思う。将来どんな事になるか分からない。もう絶望的だと思っても、その時には思いもよらないものが発明されて、世の中180度変わる事があるのだから。