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【読書感想文】東野圭吾「人魚の眠る家」

読み始めてすぐ、後悔した。これは涙なくしては読めない代物だ。なぜこの本を買ったのだったか。

背表紙にあらすじが書いてある。それを読んで買おうと思ったのだ。だが、そこには「子供が溺れておそらく脳死」とはっきり書いてある。そんなの、悲しいに決まっているのに。

だがこれがまた、悲しいだけではない、すごい物語だったのだ。読み終えた今、読んで良かったと心から思っている。

あらすじ

離婚寸前の夫婦、和昌と薫子の間には、瑞穂と生人という二人の子供がいた。瑞穂の小学校受験を控え、親の面接の練習へとやってきた夫婦の元へ、瑞穂がプールで溺れたという連絡が入る。病院に駆けつけると、瑞穂はおそらく脳死していると言われる。

脳死が疑われる場合、臓器提供の意思を確認される。本人が生前に意思表示をしていなかった場合、家族や親が判断する。和昌と薫子は一晩話し合った。瑞穂は四葉のクローバーを見つけても、自分は幸せだから、他の誰かの為に取らずに残しておこうと言うような優しい子だから、きっと臓器提供に同意するだろうと話し、同意すると決める。クローバーの話で、まず号泣する読者(私)

しかし、いざ移植コーディネーターと面会した時、瑞穂の手がピクリと動いた。両親はそう感じた。薫子は、瑞穂は生きていると確信し、脳死判定を拒否した。それから、瑞穂を自宅で介護しようと動き出す薫子だった。

和昌は会社の技術を使い、自発呼吸や体を電気信号によって動かす試みを始める。背表紙には「狂気とも言える薫子の愛」などと書かれていたが、狂気という感じではないけどな、と読みながら首を捻った。だが、この小説は群像劇になっていて、和昌や薫子の視点で書かれた部分を読めば普通の事のように思えるのに、他人の視点で書かれた部分を読むと、薫子の執着が狂気のような、異常さをはらむように感じてくる。それが不思議であり、真理だと思った。

瑞穂の体を動かす為の機械を開発した星野や、その彼女、薫子の母親や妹、姪、和昌の父、更にはアメリカで心臓移植をしようとしている子供とその親、そしてその親の友人で募金活動に励む男まで、多くの人が描かれる。この募金活動にはあっと驚く薫子たちとの関係も。

ミステリーでもファンタジーでもないけれど、最後まで目が離せない物語だった。更に、プロローグに出てくる少年には、何か意味があったのだろうかと時々思っていたのだが、エピローグを読んでああ!と合点がいった。これは小説にしかできないというか、ドキュメンタリーには滅多にない感動だった。

大人の恋愛

最初、なんの話だか忘れてしまうくらい、恋愛モードで始まる。和昌は浮気をして家を出ていたのだが、薫子は精神科の医師に食事に誘われる。

大人の恋愛だから、派手なときめきなどはなく、こうだろうな、こういう意味なんだろうな、と落ち着いた展開になっていく。

大人の恋愛なんて面白くないものだと思っていたが、これを読んでいたらなんだか、こういうのもいいなと思った。なぜだろう。意外と、どうなるのか見通せなくて先が気になるからかもしれない。

結局、瑞穂を介護する事になり、お金が必要だから和昌と薫子は離婚しない事にするのだが、この先二人はよりを戻すのか?などとそっちも気になってしまった。二人の行きつく先は、読んでからのお楽しみ。

この小説で言いたい事は

臓器移植に関して、相当勉強されたのだろう。法律の事、医療の事などとても詳しく書かれていた。

私も多少聞きかじっていたが、数年前に法律が変わり、子供の臓器提供も可能になった日本だが、なかなか提供者は現れず、アメリカへ渡って移植するしかない現状が続いているらしい。

我が子の脳死を受け入れられず、臓器提供に同意しない親。国内で臓器提供が受けられず、海外への渡航費用が莫大で、移植すれば助かるのに失われる命。臓器移植や、脳死を死とするのかという問題。作者はたくさんの問題提起をしている。

だが、どちらかを正解とするのではなかった。脳の機能がなくても、子供が生きていると思って大事に世話をしている親にとっては、大切な一つの命。それでも、やはり移植を待ち続けて亡くなる子供は減らしたい。そういう事なのだろう。

また、当人目線では気づけない狂気、それから価値観の押し付けはあってはならない、そんなメッセージを受け取った。薫子が瑞穂にしてやりたいと思う事はエスカレートしていく。他人から見たら狂気でも、親心からしたら普通の事。

それを、裸の王様よろしく、子供が指をさす。そうだ、この話は裸の王様に通じるものがある。薫子に気を遣い、皆が瑞穂は生きていると思っているようにふるまっている。だが、生人が学校で友達に姉は死んでいると言われ、それを薫子にとうとうぶつける場面は、まさにクライマックス。価値観の押し付けをしてはいけない、と薫子がやっと気づく場面だった。

自分だったら

何度も涙を誘われた。そう、なぜこの本を読もうと思ったのかと言えば、私も人の親だから、共感できるのではないかと思ったからだ。

昔、幼稚園だか学校だかから、子供が「臓器提供意思表示カード」をもらってきた。今は運転免許証の裏面にもその記述があり、私も今は臓器提供の意思がある、に〇をしている。

しかし、子供がまだ小さい頃は迷った。そして、意思表示が出来なかった。

というのも、子供は母親がいなくなったらどれほど悲しむか、と考えたからだ。もし脳の機能が停止していたとしても、眠っているようであっても、全くいなくなってしまうのと、病院で寝ていて会いに行けるのと、子供にとってはどちらがいいか。もう少し大きくなるまで、お母さんに会いに行ける方がいいのではないか、と思ったからだ。

それから、逆に子供が脳死と思われる時、どうするか。それも想像した。まだ小さい子供だったら、脳死と思われても、奇跡が起こって目を覚ますのではないか、とほんの少しは思ってしまう。それに、その手や顔に触れられるだけでも嬉しいものだ。臓器提供をして、他の子どもを助ける事はもちろん重要で有意義な事なのだが、思いきれるかどうか。

この小説で、比較的批判的に描かれていた部分は、脳死判定は臓器提供の意思表示をした場合にしか行われないという事だった。はっきり「脳死」と言われれば、それならばと諦めて臓器提供に応じるかもしれない。しかし、脳死判定を受けられるのは臓器提供の意思を示した時だけだ。いや、もちろん脳死判定をして脳死ではないと判断されれば治療が続行されるのだが、それでもやっぱりまだ「脳死」と判断されていないのに臓器提供しますか、と聞かれても、はいとは言いにくいのではないだろうか。

東野先生、難しい問題に向き合い、充分にエンターテイメント性を加え、すばらしい小説をお書きになってくださった。どうか多くの人がこれを読み、より良い法律が作られますように

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