アフィリエイト広告、アドセンス広告を利用しています。あなたの広告への反応が、チョコナッツの収益に影響します。

【読書感想文】安達裕哉「頭のいい人が話す前に考えていること」

この本は「今いちばん売れているコミュニケーション本」だという帯がついている。

だが、私が自分で買うなら、この本は手に取らなかっただろう。夫が買って読んで、勧めてきたから読んだのだ。なぜ自分では買わないかと言うと「頭のいい人」という表現に引っ掛かるから。胡散臭い

「頭のいい人」と「頭の悪い人」の境目なんて、人に分かるものではない。それぞれ得意分野や苦手分野があるものだし、そもそも尺度がはっきりしないものだ。人間の脳は、容積にほとんど個人差がないという。

実際この本には、頭のいい人は~で、という文言が繰り返し出てくる。そこには胡散臭さを感じてしまう。

だが、為になる話もたくさんあった。読んだけれど役に立たない、と打ち捨てようと思ったのに、読んでみたらなかなかどうして、多くの人に役に立つ……かも。

概要

著者はコンサルタントだそうだ。新人の頃「コンサルタント失格」と同義の言葉を浴びせられ、そこから猛反省して勉強し、今に至る。

誰でも頭のいい人になれる、という触れ込みだ。では、どうしたら頭のいい人になれるのか。

この本に書かれている事をざっと並べると、

・感情的にならない
・賢いふりをしない
・話し方の「型」に頼らない
・簡単にアドバイスをしない

・客観的に判断する(1つの情報だけですぐ信じない)
・事実と意見を分ける
・人の話をちゃんと聞く
・言語化する(ヤバい、エモい、スゴいを使わない)

と言った感じだ。1つ1つは頷ける内容だ。常日頃、こういう人はダメだな、と思っていた事も書いてあり、そうそう、そういう人いるよねーと共感してしまった。

だが、この本をざっと読んだとしても、なかなか全てを把握できないのではないか。そして、これらのダメな事をしていた人が、果たして辞める事が出来るのか。

最後まで読めば

結論から言うと、最後まで読んで、最後の「言語化する」という話を実践したら、きっと読者はこの本に書かれている事を把握し、もしかしたらこの本で言うところの「頭のいい人」になれるかもしれない。

私も、眉に唾を付けながら、つまり騙されないように用心しながら読み進めていたのだが、最後の章でこの本を見直した。言語化するというのは、頭の中のなんとなーくわかったような気がしているものをちゃんと言葉にしようという事だ。

具体的に言うと、読書をしたらメモを書く事、だそうだ。私がやっているコレ、読書感想文を書く事も同じことだ。

私が美術館に行った後に、ブログを書くではないか。現代アートなどを観てきた時、なんとなーく頭の中にもやもやっとしていた物があって、為になったような気がするのだが、多分そのままだと忘れてしまう。この先の人生に役に立ちそうもない。

だが、ブログに書く事で「何を観てきたか」を改めて整理して考える事が出来る。そうすると、難しかったように思えた内容も、何が難しくて何が分かったのかが解かり、考える事が出来るのだ。

この本にも、言語化する事で認識できる、と書いてあった。悲しいのか悔しいのか、それとも寂しいのか、モヤモヤした胸の内を、その「悲しい」などの言葉にした時に、やっと認識できるというのだ。

まあ、この本に例として出ていた、読書後のメモはちょっとわかりにくかったけどね。この本を読んで、そのメモの真似ができない!と嘆く事なかれ。どちらかと言うと、私の読書感想文を参考にした方がいいのでは?なんてね。

まあ、目次を見返してみるだけでもいいかも。目次を見て、ああ、これとこれとこれね、と思い出すだけでも。でもその簡単に思い出す時にこそ、言語化しているような気もする。私が「概要」のところで箇条書きにした、アレ。それで充分だと思うのだ。

納得できなかった箇所

この本を読んでいると、1つだけ賛成しかねる事があった。

話を良く聞こう、という話の時だ。お見合いの場面で、

「学生時代、何をやっていましたか」

と聞いた時。相手が吹奏楽だと言ったら、どんな楽器か、どのくらいの規模だったのか、などと話を掘り下げて聞くべしという事だった。

ここで、自分の話を、例えば

「私はサッカーをやっていました」

などと話し始めてはだめだという。聞かれてもいないのに自分の話をすると、頭のいい人には見えないというのだ。

これにはいささか疑問が。コンサルタントやカウンセラーなら別だが、お見合いや友達との出会いなどの時、相手に質問ばかりして、自分の事は聞かれないからと話さないのはどうなのか。私は根掘り葉掘り聞くのが苦手で、自分の話ばかりしてしまう。え、それは頭の悪い人のする事なのか?とショックを受けた。

確かにいた。ほぼ初対面の時、どこに住んでるのか、何が好きか、などと色々と質問してくるのだが、自分の事は一切話さない人。ついこちらは、聞かれたくないのかな、などと気を回してしまって聞きづらくなってしまう。まあ、

「あなたは?」

と聞けばいいのだろうが、まだ何て呼べばいいのか定まっていないような時、もしくは一期一会的に名前を知らない相手だった時などには、なかなか返しづらい時がある。

確かに、

「吹奏楽です」

と答えが返って来た時に、それ以上何も聞かずに自分はサッカー部で、その部は強くてうんたらかんたらと、自分の話ばかりしてしまってはダメだと思うが、ある程度相手の話を聞いたら、自分はこうでしたよ、と少し話して、反応が良ければ色々と話すし、興味がなさそうなら軽く済ませるとか、もちろん臨機応変にだが、やっぱり自分の話はある程度した方が。自分の話をある程度織り交ぜながら話を聞いて行った方がいいのではないだろうか。

だってさ、あまり聞いてばかりだったら尋問みたいでしょ。

と、このところだけは疑問に思ったのだった。でもまあ、著者が言っているのは相手の話をほとんど聞かずに自分の話ばかりして、気持ちよくなっていてはダメという事なのだと思うが。

最後に

私は昨夜この本を読み終え、これは感想文にしなくていいや、と思った。さっさと本棚にしまい込んだのだ。しかし、今朝になって歯磨きをしていたら、突然やっぱり書こうと思ったのだった。不思議だ。やっばり、最後の「言語化しよう」という所が印象に残っていたのだ。私はまだ、この本全体がどういう内容だったのかをちゃんと認識していない、漠然としている、と思ったのだ。

言語化してみると、けっこう良い事言ってくれていたなーと思った。ちゃんと認識できたらしい。そして、本文中にも出てくる「ヤバい、エモい、スゴい」を使わないというのにも、身に詰まるものがあった。息子に、

「どうだった?」

と聞くと大抵

「まあ」

とか

「よかったよ」

くらいしか返ってこないのだ。今からでも遅くない。ちゃんと言語化させようか。

言語化するのは挨拶と同じで、習慣だそうだ。やっている内に身に着くものだとか。私がブログを書けるのは、子供の頃から日記を書いていたからに他ならない。頭がいいとか悪いとかの問題ではない。

日記や感想文はともかく、ただ「よかったよ」「面白かったよ」ではなく、もう少し色々な言葉で話をしてみるだけでも、もっと人生が良くなるかもしれない。この本を読んで、こんな事を考えるのは私だけだろうか。

頭のいい人が話す前に考えていること 単行本→https://amzn.to/3vN3C19