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3.11の記憶

2021年3月11日(木)

 今日は3月11日ですね。東日本大震災から10年です。
 今まで、10年前の3.11の記憶を語った事は無かったので、今日は改めて思い出し、語ってみようと思います。ちょっと長くなります。すみません。

卒園間近

 あの日は金曜日でしたね。私は子育て真っ最中でした。長男が小学校3年生、次男が幼稚園の年長でした。3月ですから、次男は卒園を間近に控えていました。確か卒園式は3月17日の予定だったので、約1週間前だったわけです。
 私は、次男と一緒に幼稚園のお教室にいました。謝恩会のためにクラスの園児とその母とで集まって、出し物の練習をしていたのです。私はクラス役員をしていました。出し物は歌を歌うということで、ピアノ伴奏を担当していました。難しいディズニーの曲を、一生懸命に練習していた記憶があります。

突然の、長い揺れ

 地震は突然来ました。あまりの揺れの大きさと、その時間の長さにすごく驚き、
こんなの生まれて初めてだ!」
という思いから、ものすごく大変な事が起こったと思い、次男を手元に呼び寄せ、床に膝をつき、次男を守るようにしながら、思わず、
「キャー!」
と悲鳴を上げてしまいました。長い横揺れ
 ただ、その幼稚園の建物は新しく、棚なども無い部屋で、物が落ちてくるということは全くありませんでした。それでも怖くて悲鳴を上げていたのですが、その時に衝撃だったのが、幼稚園の若い女の先生が小走りに走ってきて、窓を開け、園児たちにしーっと指を口に当て、その場にしゃがんでいました。
 若いのに、なんて冷静!なんてしっかりしているの!?という衝撃。
 きっとそれは、「仕事中」だという責任感だったのだと思います。それでも、私は自分が恥ずかしくなり、悲鳴を上げるのを抑えました。それでも、ついつい悲鳴が出そうになりました。そして、涙もちょっと出ました。
 思ったのが、年をとればとるほど、「生まれて初めて」な事が「ものすごい事」と認識するようになるのだな、という事でした。

子供を守らなきゃ

 子供を守らなきゃ、という気持ちはいつでも忘れませんでした。揺れを感じてすぐに次男を呼び寄せたのですから。しかし、私にはもう一人子供がいます。時計を見ると2時45分を過ぎたところ。ちょうど学校が終わる時間でした。すでに下校していたら、道の途中でどんな事になっているか。咄嗟にそう考えました。
 やはり、小学生のお子さんを持つお母さんたちは、同じように心配して、携帯電話を持たせている方はすぐに電話をかけ、「つながらない!」と言っていました。
 私は子供に電話を持たせていなかったので、どのみち連絡は取れません。とにかく帰らなければ!という気持ちになりました。私はクラス役員だったのに、今考えれば、そんな役割はすっかり頭から抜けていました。クラス役員は4人だったのですが、そのうちの私ともう一人の役員さんが上の子の事を気にして、さっさと帰りました。
 ところが、外まで出たところで、次男が鞄を忘れたと言いました。私は焦っていたのですが、今日は金曜日だし、仕方なくまた教室に戻りました。すると、驚きました。
 私がこんなに焦っているのに、教室では先生にお渡しする色紙を書いている人たちがいるではないですか。あんな大きな地震があったのに、何事もなかったかのように、色鉛筆で何やら書いているのです。でも、不思議ではないかもしれません。子供が一人しかいなくて、今ここにいるならば、それほど焦って帰る必要はないのかもしれない。けれども、その時の私には理解できませんでした。その人たちの中には、遠くから通って来ている人もいたので、おそらくその後、電車が動いていなくて困ったのではないかと思いますが、その時点では何も分かっていなかったのです。

帰宅中の余震

 地震が起こった時、先生が窓を開けましたが、その時に窓の外を見たら、校庭では小学生の男の子たちがサッカーをしていました。外で走っていたら地震に気がつかなかったのでしょうか。しかし、私たちが帰ろうとした時には、学園長なども外に出て、何やらバタバタしていたようでした。
 次男の手を引いて、道を急いでいると、また地震がありました。揺れを感じたというよりも、まず電線が大きく揺れて、それで気づいたのです。立ち止まって辺りの様子を伺い、揺れが収まったのでまた歩き出しました。もしブロック塀が崩れたり、地面が割れたりしたら大変でしたね。幸いそういうことも無かったのですが、あったらどうなっていたか。警戒はしていたものの、もし大きな陥没などがあったら、巻き込まれていたでしょう。つまり、本当はまだ帰るべきではなかったかもしれません。
 道を歩いていると、近くの企業の社員さんたちが悠長に歩いていました。けれども、そんな早い時間に多くの人が歩いていたということは、早めに帰宅しようとしていたのかもしれません。

家の中は

 家のすぐ近くに、子供たちのおばあちゃんの家があります。その日は私が幼稚園に出かける日だったので、長男はおばあちゃんちに帰ることになっていました。なので、私と次男はおばあちゃんちに直行しました。
 すると、長男がいました。心底ホッとしました。そして、テレビでは津波の映像が流れていました。海の映像は規模感が分からず、どれだけ大変な事が起こっているのか、実感が沸きませんでした。
 子供はそのままおばあちゃんちに残し、私は自分の家に一度帰りました。避難する事になるかもしれないと思い、避難するための物を取りに行ったのです。
 玄関の鍵を開けて、びっくりしました。下駄箱の上に置いてあった物が散乱していたのです。さらに、部屋に入るとあれこれと物が落ちていました。けれども、瓶が一本だけ落ちていて、ぎりぎり2本目が落ちていなかったので、割れずに済んだし、CDがたくさん入っている棚の扉には、開かないようにゴムで止めてあったのですが、そのおかげで少し開いていても、中がぐちゃぐちゃでも、外へは出ていませんでした。

鍵はどこ?

 そして、洗濯物を取り込もうと思いました。ちょうどそんな時間です。そう、帰ってくる時に怪しい雲が出てきていました。その日は雨の心配はなかったはずなのに、雨が降り出しました。びっくりして急いで洗濯物を取り込みました。やはり、大地震があると天気までおかしくなるようです。
 チョコレートとスリッパと財布などを小さいバッグに入れ、子供たちの元へ向かおうとした時、家の鍵がないことに気づきました。さっき開けて入ってきたので、この部屋にあるはずなのに。散乱した物に動揺してしまい、上の空でどこかに置いてしまったのです。あちこち探しました。物が散乱しているので見つけにくいのです。しばらく探して、ようやくテーブルの下で見つけました。動揺したままテーブルの上に置こうとして、落してしまったのでしょう。
 パソコンのモニターやスタンドの電気など、ぐにゃっと曲がるものが悉く揺れたようでした。本棚も、向きによって本が散乱したものと、何事もなかったような物とありました。

住人同士で

 私の家はマンションですが、子供を連れて戻ってくると、住人の方がエントランス付近に集まっていました。上の方の階の方は、部屋の中が割れたガラスでぐちゃぐちゃだと言っていました。裸足で歩けないと。恐ろしいです。また、ガスが止まっていると言うことで、ガスメーターのここをこうすればいい、と年配の方が教えてくださり、私もそれを実行しました。幸い電気もガスも水道も、止まることなく使えました。避難所へ行くこともなかったです。

あれこれ中止に

 その後、急に幼稚園の卒園式を中止する、という連絡が入り、怒った保護者が幼稚園に訴えたとか、いろいろ情報が飛び交い、結局日時を変更して、体育館ではなく教室で、クラスごとに卒園証書を渡していただく、という事になりました。謝恩会は中止で、私たちが企画していた母子のお別れ会も中止になりました。せっかくいろいろ企画したり、練習したりした事が、無駄になりました。考えてみたら今のコロナ禍とも少し似ていますね。予定していたスキー旅行もキャンセルしました。長野に行こうとしていたのですが、ちょうどその直前にそちらでも大きな地震があったのです。

小学校のおかしな対応

 それからしばらく、長男を小学校に送り迎えしなければならなくなりました。
 1週間ほどは、次男の幼稚園があるので、長男のお友達のお母さんが、私の代わりにうちの長男の送り迎えもしてくれました。そして、しばらく長男は防災ずきんをかぶっての登下校でした。
 これも、すごくおかしな話なんです。実際に大地震があった時には、長男たちは、まだ帰りのホームルーム中だったそうなのです。本当なら、そのまま学校に留め置き、保護者に迎えに来させるべきものでした。ところが、そのまま帰宅させてしまったのです。防災ずきんも無しで
 幸い地割れもなく、ブロック塀の崩壊もなかったですが、あったら大変でした。もう一時間帰宅が遅かった高学年の児童の事は、保護者が迎えに行ったそうです。あの、2回目の大きな揺れの時、私が電線が大きく揺れていると思ったあの時に、長男はランドセル背負って、一人で下校中だったのです。
 また、おばあちゃんちは無事でしたが、もしうちのマンションに帰ってきていたら、物が散乱しているところに一人で帰ってきたら、怖かった事でしょう。もし、マンションに一人でいる時に大地震が起こったら、上から物が落ちてきていたわけですから。

原発ゼロでも大丈夫

 それからしばらくは、放射線量が気になったり、計画停電があったり、余震もあったりして、1年くらいは「震災」でした。うちはおそらく幹線道路の近くだからか、計画停電の地区ではなかったのですが、実家の方では計画停電したそうで、夜は真っ暗で、早く寝てしまったと言っていました。
 夏は電力が足りなくなるからと、節電しましたね。都内に無数にあった自動販売機も一時消えたのでしたか。コンビニなども明るすぎる電灯を絞ったりとかして、みんなで節電したら、原子力発電がなくなっても、大丈夫だったんですよね。私は、原発ゼロ派なのですが、それはこの時に、原発なしで過ごせたからです。自然エネルギーだけでも工夫次第でやっていけるはずです。